論語物語 (講談社学術文庫 493)
論語の内容を小説化した本。
孔子とその弟子たちを登場人物として、論語にある言葉が吐かれた背景を、
28個の物語としてまとめてある。
例えば、公冶長篇にある
「子貢問うて曰く、賜いかんと。子曰く、汝は器なりと。
いわく、何の器ぞやと。曰く、瑚れんなりと。」
では、瑚れんと題して、孔子が、子貢、子賤が君子について問答する様子が描かれる。
素晴らしいのは、登場人物のセリフの中に、
上の“瑚れん“と証することになった箇所以外の文言からの引用が多く見受けられるところである。
“瑚れん“では、他に7箇所からの引用がある。
つまり、この本は論語の文言をジグゾーパズルのように組み合わせて物語を編んでいるのだ。
これには、よほど論語を読み込まなければ出来ない所業であろう。
これを一冊読めば、論語の言わんとすることが、書き下し文を読む以上によく伝わってくる。
[新装版]青年の思索のために
東洋思想をかみくだいて、簡単に、かつ、本質を見誤らせない。そんな下村さんの見識の深さは計り知れないのではないでしょうか。
私は、下村さんを論語物語で知り、次いで次郎物語、論語、そして本書というようにして知ってきました。
また、平行して、新渡戸稲造さんの武士道、修養。佐藤一斎の言志四録などの東洋思想を学びました。
おそらくは下村さんと新渡戸さんは佐藤一斎の言志四録を基調としているのではないかと思われます。
そして、佐藤一斎は論語その他の東洋思想を基調としています。
何を書きたいのか分からなくなってきたので終わりにしますが、思想の精神は脈々と受け継がれているということに驚きました。太平洋戦争以後に拝金主義に偏り徳を置き去りにしているのが残念で仕方がありません。
次郎物語〈中〉 (新潮文庫)
「運命」「愛」「永遠」というテーマが作者によって提供され、それを軸に物語が進行します。運命が重々しかった幼年期に比べ、運命を自覚することにより愛と永遠という開放的な視点が次郎に宿り始めます。
このように書くと堅苦しい哲学小説だと思われそうですが、作者の筆致は愛情に溢れていて読んでいて胸が熱くなります。きわめて稀有な作者の愛情の発露を味わうことになります。
[現代訳]論語
本の情報を書きます。
新書サイズなので文字が大きく、中高年の方にお勧めです。
原文、書き下し文はありませんので音読されたい方には不向きです。
各章ごとに訳注がついていますが、図や写真はありません。
訳文は忠実な逐語訳ではなく解釈に近いものがあります。
丁寧で優しい文章は読みやすく、親しみがもてます。
次郎物語〈上〉 (新潮文庫)
次郎物語(上)には、第一部と第二部が掲載されている。
第一部は、幼い頃に里子に出された次郎が、実家に連れ戻され、家族間の葛藤の中で成長していくところから、一家の没落、母の死までが描かれている。第二部は、母の死後、父の再婚から、中学に入学し朝倉先生に出会い、「愛されようとすること」から「他者を愛することへ」自らの生き方を転換させていこうと次郎が決意するまでが描かれている。
この手の作品(少年の成長を描いた作品)は数多くあるが、次郎物語はその中でも群を抜いて優れた作品だと思う。それは、少年の心理描写の緻密さと、物語としての不自然ではない面白さが群を抜いているからだ。物語は、たくさんの小さい出来事から構成されているが、ひとつひとつの出来事の描写が味わい深く、何度でも読み返したくなる。愛されないことからくる苛立ちからつい犯してしまう乱暴や失敗、大人に誉めてもらいたいがためのスタンドプレーのような行動、そしてその後にくるほろ苦い気持ち・・・子どもの頃なら誰でも覚えがあるのではないだろうか。この作品を読むと、少年の成長過程に、「大人」がいかに重要であるかを思い知らされる。
下村湖人は、この少年心理を誰よりも深く理解していたに違いない。大人が読めば、子どもの頃の気持ちを切々と思い出すこと間違いなしであるし、少年少女が読めば、夢中になって読み、自らの生き方について考えることができることと思う。この次郎物語(上)は、文句なしの秀逸な日本文学である。