NHK少年ドラマ・アンソロジーI [DVD]
音楽や演出のせいだろうと思うが、見始めてすぐに 横溝正史シリーズを彷彿とさせてしまった。今から考えると、時代的にもほぼダブっているので、その頃のドラマはこういった感じだったのだろう。
しかし正直言って、セリフや演技など、現在の水準からすれば素人レヴェルに近い。
それにドラマ全体が、TVドラマと言うより舞台劇を見ているような感じだ。
例えば[明日への追跡]に「2年A組」と出てくるが、だとすればあるはずの「1年A組」や「2年B組」などの存在が、この学園の雰囲気からはまったく感じられない。例えドラマの内容にまったく関係が無かったとしても、平成のドラマだったら そういった見えない部分のスケール感の表現も自然に出来ていて、それが無意識に醸し出る「リアリティ」となっている。
また 中学生と言えば 実際は異性に対する意識が尋常ではない頃で、これらNHKドラマのような、ノンセクシャルな男女間の友情は極めて不自然と言わざるを得ない。
ただそれらを総てひっくるめて、自分が生きてきた昭和と言う時代への郷愁を味わうという意味においては、まさにこの時代=自分の小学生時代にダイムトラベルしているみたいな気分になれる。
閔妃(ミンビ)暗殺―朝鮮王朝末期の国母 (新潮文庫)
自分はこの本について価値がないとは、思わない。
確かに、角田は学者にくらべれば歴史については無知に等しいし、本書においての小説仕立ての彼女の語調も多分に推論と感情移入の織り混ざったものであり、巧みな筆致で小説と歴史を語る書としての間を行ったり来たりしている。
すなわち、重要な問題を登場人物の「心情」に落とし込むことで、例えばカギ括弧を使って三浦に閔妃殺害を誓わせることで、三浦梧郎が主犯であるとの確信をこちらに与える。これは手法として、会話文を使い、歴史にロマンを持ち込むことは、小説家としての彼女の手腕の鮮やかさを感じさせることながら、「歴史を語る書」としては読者を幻惑させるものであり、信憑性には何だか危ういものを感じる一例である。
しかし、未だ閔妃を巡る議論は錯綜を極め、この問題について議論をするときには明確なスタンスが必要とされるが、そういった中、この本は明確な資料であり、
この本を中心に据えての指標として、対極となるべきは、韓国の学者たちであり、この本への異議自体であり、この本を巡っての有意義な議論である。
現在日韓問題の前に横たわる長い冬の時代において、正確で公平な判断を下す上で、敢えてこの書は避けては通れぬものだと認識する。
閔妃を日本の市民レベル、若い層にも知らしめたのも、この本である。
公平なリテラシーを照らし合わせ、ぜひ、読まれたいことと思う。
ベスト・オペラ100
星5つではまだ足りない。あったら7つか8つ上げたいようなセットである。
ほとんどの廉価版オムニバスCDが、雑誌のおまけのような、「さわり」の部分だけを集めた小間切れ集なのに対し、このCDは、アリアや二重唱を前奏から最後までしっかり収録しており、ドニゼッティの「ランメルモールのルチア」の狂乱の場は16分43秒がノーカットで納められている。
曲目もモーツァルト「魔笛」の「夜の女王のアリア」、「おれは鳥刺し」、ヴェルディ「リゴレット」の「女心の歌」、ビゼー「カルメン」の「ハバネラ」と「闘牛士の歌」など定番の名曲は総て入っているほか、オベールの「ポルティーチの物言わぬ娘」(序曲は運動会用のマーチとして一部が使われている)など、よほどのオペラおたくでも知らない珍しい作品も収録されており、しかも演奏者は、カラス、シュヴァルツコップ、ドミンゴ、カレーラスなどこれ以上ない顔ぶれである。
録音は多少古いものがあるが、却って現在のAV時代の、見せるため、あるいは劇としての総合性を大事にする演奏よりも、個性豊かな名歌手たちの特長を十分に引き出すようなこの時代のほうが、ステレオ初期からレコードでオペラをを楽しんでいる人には好ましい。オペラ入門者だけでなく、オペラ通も十分に楽しめ、鑑賞できるすばらしいセットである。
惜しむらくは、8つ折り2枚の解説書が、曲のデータと解説が別々になっていて見にくいこと。また、解説書の中に、歌手たちの簡単なプロふぃkるを紹介してくれるともっと良かったと思う。
西太后―大清帝国最後の光芒 (中公新書)
著者によれば、西太后が君臨した清朝の最後の半世紀は、あたかも現代中国のパイロット・プラントだというのです。その例として;
1.「洋務運動」という名の開発独裁の成功と破綻、2.知識人の「反日愛国」運動、3.「文化大革命」の原型のような排外主義的大衆狂乱(マスヒステリア)、4.「改革開放」を先取りしたような変法新政、などを挙げています。
特に私にとって「眼からうろこ」は、3.のマスヒステリアとしての義和団事件の記述でした。清朝政府は農民の集会や結社を禁じていたのですが、山東省の農民が中国人キリスト教徒を襲ったのが発端で、義和団が暴徒化していきます。ところがこれを取り締まるべき現地の官憲の責任者が、列強に対する外交カードになりうると考え、配下に「義和団の排外暴動を黙認すること、ただし、もし彼らが少しでも反清運動に転ずるそぶりを見せたら容赦なく鎮圧すべきこと」を命じたというのです。文化大革命に限らず、先年の日本大使館襲撃も、彼らにとっては「あたりまえ」の行動だったのかも知れません。中国共産党史観では、西太后が「悪女」なのはもちろんですが、反帝国主義闘争として賞賛されている「義和団」ですら、その土属性や狂信性はタブーとされているとのことです。
自らが気付かないこと、触れたくないことにこそ、その者の本質があるのかも知れません。
清朝の王女に生れて―日中のはざまで (中公文庫BIBLIO)
著者の父は西太后の夫同治帝の弟にあたるので、著者は生まれたときかられっきとした清のお姫様。父母は早くになくなったものの豪華な屋敷で召使に囲まれ、対戦前には学習院大学での留学をしたり何気に有名スパイの川島芳子と身内で知り合いだったり、上流階級として暮らす。そのうちに清が名実ともになくなり、日本軍の進撃、国民軍、続く共産党支配の時代、革命と粛清の波を、著者は中国の真っ只中で「もと王族の庶民」として経験する!当局による保護は一切なし。むしろ投獄されたりするが、著者の生命力というか、バイタリティはすごい。どんな逆境も笑って乗り切り、攻撃や皮肉も真剣にとらえない。鷹揚に激動の時代を乗り切っていく。中国を嵐のように過ぎ去った時代の中で精神的に強く明るくあることがどれだけ必要か考えさせる本。他の文化大革命の本とは神経質さが違う。あくまでも明るく現実的なところが著者のおおきな能力であろう。