ソルハ
アフガニスタンのタリバン政権は女子から教育を奪っていたこと、成人女性はブルカで覆い人というより物に近い扱いであったことを本書で知りました。主人公の少女は母親をタリバンに殺されてしまいます。主人公も家族も失意の中にあっても平和で明るい日々が来ることを信じて「今できること」を続けていきます。それが命の危険を伴うことであっても。
私にとって学校は「行かねばならない所」であったし、砲火、爆撃のない街にいます。しかし四方八方を様々な競争に囲まれ、まるで砲火爆撃のように競争が襲いかかってくるように感じることがあります。この「ソルハ」は子供も大人も競争に撃破されないための一つの道しるべになると思います。
閉鎖病棟 (新潮文庫)
それぞれの人生を、そしてそれぞれの心の病(と一般に呼ばれているもの)を背負いながらも、日々を淡々と暮らす病棟の人々の普通さ。一方、正常の顔をして病院の外で暮らしている人々に見え隠れする、心を失ってしまうということの異常さ。視点をほんの少しだけずらしてみることで見えてくる、普段は見えない世界。そういうものをこの作品を通して、フィクションとはいえ、垣間見たような気がする。何かにつけ人は無意識に、弱さや病を何かいけないもののようにして蓋をしてまいがちだが、それらは心の垣根を取り払い、心を結びつける。運命と呼ばれるものに負けない、逃げない、底知れぬ強さが、一人一人の登場人物の中にある。これら全てを、作者は丁寧に描いている。読後、上を向いて生きなければ、と勇気をもらったような気がした。
エンブリオ (下) (集英社文庫)
生殖医療、移植医療における医療倫理とは何なのか。
この作品の問いかける問題はあまりに重い。
この主人公は、それを「患者のため」と一言で語るだろう。
患者を救うことが医療の第一義であるならば、その目標に誤りはない。そして、それは往々にして正しいことである。ではあるのだが、パーキンソン病治療のために妊娠をさせ、その胎児の脳(の一部)を移植するということが正しいことなのか?
広域やけどの治療にたとえばお尻の皮膚を切ってくることと、脳の治療のために精子を採ってくることの違いは何なのか?全身麻酔の必要な骨髄提供を求めることと、胎児を作るための子宮提供を求めることの違いは何か。そもそも、受精卵はいつから一個生命であるのか。
「胎児」と呼ばれる前の「エンブリオ」というタイトルの重みを読者は正面から受け止めなければならない。
水神(上) (新潮文庫)
田舎に行けば大きな川の側には、ひっそりと石碑に刻まれて、水神様が祭られている。今まで水害から村の暮らしを守るために、人が神頼みをしているものだと思っていた。間違いではないだろうが、この本を読んで、本当は治水工事などをした昔の名もなき人々、その一人ひとりがまさに水神と呼ばれるのにふさわしいのだと感じた。
筑後川に堰を作って水を引くことを決意した4人の庄屋、地方藩の郡代である下級武士、工事に携わった百姓、それら大勢の人々の苦闘と栄光を描いた傑作である。人のために生きる、生活を捧げるという行為が、現代を生きる我々の生き方に一石を投じる。流されるなよ。何が人間にとって大切なことなのか、我々は問われるはずである。
蛇足だが、本書に数々出てくる昔の料理の描写がなんとも旨そうで、匂いや舌触りが感じられて、付け加えずにはいられなかった。
日御子
卑弥呼が世に出る前・出てから・出た後すぐの頃の日本の、九州が舞台となっている。「使譯」[しえき]という通訳兼漢字記録者の視点で物語が紡がれていく。
この時代の日本のようすを伝える歴史書は『魏志倭人伝』しかない。歴史的な空白の多い、というか、歴史的な記述の少ない時代の物語は、物語に説得力さえあれば何をどう書いても良いのではないかと思う。この小説にも「えっ?」と思うような記述がたくさんある一方で「なるほど!」と思う記述もそれ以上に多い。司馬遼太郎のやり方が許されるのなら、この本も全然問題ないだろうと思う。
しかし、帚木氏は医療系の小説を多く書く印象だったので(ギャンブル依存症対策の本もあるが)、突然の歴史小説に戸惑った。しかし予想以上に楽しく読めた。