アメリカン・スクール (新潮文庫)
小島信夫のような大作家の小説をこのように読むことは間違っていることは承知でレビューします。
「アメリカン・スクール」は戦後10年以内が時代設定になっている短編小説ですが、現在の多くの英語教師たちの英語の力もこの小説に書かれている先生たちの英語の力と大差ありません。わたしのつれあいは日系アメリカ人でバイリンガルなのでそんなひどい目には遭いませんが、中高にネイティブを連れて行ったり、ネイティブもいっしょに先生たちと昼食会をしたりするとその外国人が日本人英語教師たちから透明人間扱いになる場面を何度も経験しています。その状況は少しずつはマシになってきてはいるそうですが。
文科省の方はこの本をよく読んで、この本に出てくるような英語教師たちがどうやったら少しでも効果的な英語教育を行えるか、膨大な数の英語のできない英語教師たちをどうやって研修するかの2点をまず真剣に考えるべきです。中高の英語の授業は原則英語で行うなどと現実からかけ離れたことを言ってないで。
うるわしき日々 (講談社文芸文庫)
名作「抱擁家族」の続編、と作者自らが宣言しています。
今、このように構成員が壊れてしまっている家族は少なくありません。高齢化社会、弱肉強食の新自由主義に基づく社会が進むにつれ、このように「人生の敗者」になってしまっている成員を抱えた家族はますます増加してゆくと思われます。
この小説は「私小説」なのでしょうか? たぶん、作者自身が置かれたプライベートな状況に極めて近いのでしょう。しかし、少なくともむしろ作者一流のユーモラスな筆致によって、その絶望的な状況は緩和されているようにみえます。
しかし、それはあくまでも見かけです。このユーモアはどこから来るのでしょうか? 開き直りなのでしょうか? それとも生への信頼なのでしょうか? たしかに、このような救いようのない状況に対抗するのはこの「ユーモア」しかないのかもしれません。しかしわたくしはそれが極めて無気味に見えます。現実が、そのユーモアの向こうに隠蔽されたようにみえる分、かえって「救いようのなさ」が強調されているように見えるからです。
ということで、個人的にはあまり好きなタイプの小説ではありません。しかし、好悪を理由にこの名作を推さないのは不公平というものでしょう。
抱擁家族 (講談社文芸文庫)
日本のアメリカ化が本格に進み始めた戦後10~20年の時期の、日本社会が崩壊・変形していく姿を、一家庭の壊れていく姿を通して、象徴的に描いているのが本書ではないでしょうか。その暴力的ともいえる変化の要請は、家庭に入りこんでくる米兵ジョージ(情事?)の存在、最新式の欧米風住宅を建てる、などのプロットを通して表現されていきます。主人公のなすすべもなく押し流されていく様子と、したたかに適応して生きていく子供たちの姿が、時代の変化をなにより雄弁に語っているように思いました。
1960年代半ばの、社会の急激な変化への憂いと諦めがこの小説の底に流れているように思います。その意味できわめて同時代的な小説なのでしょう。今読むと若干鮮度は低いです。21世紀には多分書かれない文章なのではないでしょうか? なぜなら現代には現代の問題が存在するからです。それでもあえて今日的な意義を見出すとするなら、本書はわれわれが抱える近代化のもたらした問題の発露を予見していたということになるでしょうか。