二葉亭四迷 (明治の文学)
「平凡」で二葉亭は文学のくだらなさ、文士のいい加減さを徹底的に暴き出す。それも自らを題材にするというやり方で容赦なくやる。これを読んで文学を書こうとか文学表現がいいことだとかの戯言、甘い見通しは立ち消えてしまう。ロシア文学の徹底性の影響があるのではないかと吉本隆明は言っているが、文学など作者はすぐ死んでしまうし、作り物で何も良いことはない馬鹿げたものだと感じさせる。これは文学に限らず芸術一般に突きつけられた刃だ。君はどうする?
東京大学で世界文学を学ぶ
人間が生まれて成長していく過程と、人類が誕生して文化を持っていく、言語を習得していく過程とはパラレルではないか。そういうふうに考えるしかないような形で人間が意識、つまり、言語を持った。(巨大となった脳細胞の自己保存)
言語を持つということは音を分節すると同時に世界を分節することである。外側の世界を音によって分節化して再構築する。
そこに物語が生まれる。神話が誕生する。
物語とは共同体内部の声に依拠している。
近代の小説(言語で書かれたもの)は個人がつくり出したものである。そして、物語から声が失われたものが黙読である。
声が閉じ込められることによって「内面」が生まれる。心である。つまり、「行為」でなく主観・客観・対象である。
(仏教ではこれを幻化・空華とする)
明治以来の教育は一貫してこの流れを加速させてきた。(近代化)
この本を読んでいると江戸時代以前についてどの程度を理解出来るだろうかということを考えてしまう。
外部自然と私とが切れ目なしに地続きになっている無垢な経験が今では失われている。「行為」という視点の欠落である。
かろうじて武術等には残っているがこの落差は大きい。
辻原登は慧眼の人である。このほか多数の斬新な見解が示されている。
其面影 改版 (岩波文庫 緑 7-4)
日本近代文学史上、二葉亭の『浮雲』の出現は画期的なものと認知されているけれども、それから20年ぶりに発表された『其面影』は今日に至るまで正当に評価されていない。これは誰がなんと言おうと彼の最高傑作であるばかりでなく、明治期の日本小説最高の作品である。『浮雲』の青臭さを払拭したうえで、冷徹な人生観照を隅々にまで行きわたらせ、哲也と小夜子の悲痛な運命を浮かび上がらせることに成功している。そこに描かれた近代知識人の自我の懊悩は、以後漱石の『三四郎』から『明暗』の諸作に引き継がれていく。この一作なかりせば、日本文学史はかなり違うものになっていたであろう。
浮雲 (新潮文庫)
人生を歩み続けることでより豊かな幸福や世界への視座を獲得できるはずだという確信は、事後的にしか立証し得ないという意味でもろくはかない砂上の楼閣にすぎない。これはシニシズムなどでは決してなく、実は今目の前を時々刻々と流れていくその刹那に"それ"が既に訪れ、そして彼方へと走り去ってしまったのではないかという、あまりに明け透けな恐れとおののきなのかもしれない。そもそも個別・主観的な人生に意味付けなど為し得ないわけで、過去への感傷が未来への希望を駆り立てるまま一心不乱に泣き笑い続ける、それが人の一生というものなのかもしれないけれども。
とまれ、すこぶる冗長となったが、これが本作の読後感ともいうべきものである。文学というものが曖昧模糊とした時代の核に明快な輪郭を与える作法だとすると、林芙美子が切り取った軌跡は我々がどれだけもがいても表白しえない唯一無二の普遍である。劇的な感傷を交えずに、時代を生きたオトコとオンナの愛憎と現実を淡々と描いた約500頁の紙片は、辻仁成が"サヨナライツカ"でどうしても描き切れなかった世界ですらあるのかもしれない。放浪の作家・林芙美子の代表作という触れ書きがまったく上滑りしていない筆致に「むべなるかな」と独りごちたくなるわいな、しかし。