We Need to Talk About Kevin
つい先日、コロラド州デンバーで24歳の大学院生が12人を射殺する事件がおこったけれど…。この物語は、1991年にコロラド州でおきた「コロンバイン高校乱射事件」を題材とした作品。同事件は、生徒二人が校内で銃を乱射して、死者12名・負傷者24名をだした大惨事で、アメリカにおける銃規制論争のきっかけとなったもの。
この物語の中では、Kevinが16歳になる3日前に高校で9人(生徒7人、教師1人、カフェテリアワーカー1人)を殺害する。物語は、母親のEvaが、夫(つまりKevinの父親)のFranklinに、手紙を書く形式で内省して、進んでいく。その手紙は、タイトル通り、we need to talk about Kevinというところに落ち着くのだろうが、そこに至るまでの細かなエピソードが実に緻密に、母親らしい視点で描かれている。と、いっても、Evaの苦悩は、一般的な「母親」のそれとはやや異なっている。Evaは大手出版社のCEO、夫は広告関係のフリーランスワーカーで、一家は裕福な白人の上流家庭。自分のアチーブメントとオリジナリティーを誇りに思うEvaは、そもそも子供を望んでいなかったが、愛するFranklinに請われて、「未知なる地(motherhood)に足を踏み入れているのもいいかも」と、遅くして子供をつくることにする。ところが、生まれてきたKevinを育てることは、何から何まで思うようにならない。Kevinの持つ奇妙な無気力感、アパシー、ニヒリズム、欲望の欠如、そして悪意……それらに対処しかねるEvaの心情が、「ねぇ、Franklin、わかる?」と夫に訴えかける形で徒然と続く。実に真に迫ってくる内容だし、リアリティーのある数々のエピソードはどれも秀逸なのだが、とにかくEvaの心情吐露が細かすぎるほど細かくて、正直かなりうっとうしく感じることが多い(とにかく、彼女の説明が無駄に長い)。特に、プライドにあふれた成功したwhite, American, female独特の嫌味と、自分を正当化しようとする詭弁が、もう「勘弁してほしい」という感じ。
ただ、この種の少年犯罪では確かに「育てた親の責任」と思われることがあり、母親として自責の念を感じずにはいられない中、それでも「本当に私のせいなの?」と自問する気持ちはよくわかる。nature vs neuterは永遠のテーマであり、それを加害者の母親として問い続ける不安定な心理は本当によく書けていると思う。著者が言うように、結局はこの問いにeasy answerなどないのだが…。
物語は、「今は離れている」FranklinにEvaが手紙を書く形式を最後まで貫くのだが、読者はかなり早い段階から、Franklinが(そして途中からはCelicaが)いまどこに居るのか、気になってくる。それが気になって、最後までなんとか読む、というところだろうか。
文体は読みやすいのだが、語彙が非常に難しい。高学歴WASPの女性(しかも出版業のCEO)が語るにふさわしいelaborateな語彙のせいで、いまいち理解できない部分も。レアな語彙力を増やしたい人にはぜひお勧めの一冊。これほどWASPyな語彙をちりばめつつ、しかし文体的には読みやすい(内容が理解できる)小説は稀かも。
映画化されて、日本でも公開になるのだが、その邦題「少年は残酷な弓を射る」は、「ああ、なるほど」と思わせるタイトル。なぜかは読んでみてのお楽しみ。私の中では、Evaはサラ・ジェシカ・パーカー、Kevinはリバー・フェニックスか「ギルバード・グレープ」の頃のデカプリオ。映画も観てみたい気がするが、これを映画化してどうする?とも思う。つまり、メッセージ性がないのだ。これは本作を通して思ったことでもある。結局、一番知りたいところが「分かりえないよね」というところで結論付けられてしまう。それでは、この様な作品を書く意味はあるのだろうか?
ちなみに、本作が最終稿に入ったころに9-11が起こり、そのせいで(あんな大事件の後に、こんなdestructiveな作品誰も読みたがらないよね、私だって読みたいと思わないよ、と著者自らも認めている)出版にこぎつけるまでにかなり困難があったらしい。だが、イギリスでオレンジ賞も受賞している。あ、それから、著者には子供がいない。にもかかわらず、母親の心理が本当によく描けているので、小説家ってすごいな、って思う。
We Need to Talk About Kevin tie-in: A Novel (P.S.)
つい先日、コロラド州デンバーで24歳の大学院生が12人を射殺する事件がおこったけれど…。この物語は、1991年にコロラド州でおきた「コロンバイン高校乱射事件」を題材とした作品。同事件は、生徒二人が校内で銃を乱射して、死者12名・負傷者24名をだした大惨事で、アメリカにおける銃規制論争のきっかけとなったもの。
この物語の中では、Kevinが16歳になる3日前に高校で9人(生徒7人、教師1人、カフェテリアワーカー1人)を殺害する。物語は、母親のEvaが、夫(つまりKevinの父親)のFranklinに、手紙を書く形式で内省して、進んでいく。その手紙は、タイトル通り、we need to talk about Kevinというところに落ち着くのだろうが、そこに至るまでの細かなエピソードが実に緻密に、母親らしい視点で描かれている。と、いっても、Evaの苦悩は、一般的な「母親」のそれとはやや異なっている。Evaは大手出版社のCEO、夫は広告関係のフリーランスワーカーで、一家は裕福な白人の上流家庭。自分のアチーブメントとオリジナリティーを誇りに思うEvaは、そもそも子供を望んでいなかったが、愛するFranklinに請われて、「未知なる地(motherhood)に足を踏み入れているのもいいかも」と、遅くして子供をつくることにする。ところが、生まれてきたKevinを育てることは、何から何まで思うようにならない。Kevinの持つ奇妙な無気力感、アパシー、ニヒリズム、欲望の欠如、そして悪意……それらに対処しかねるEvaの心情が、「ねぇ、Franklin、わかる?」と夫に訴えかける形で徒然と続く。実に真に迫ってくる内容だし、リアリティーのある数々のエピソードはどれも秀逸なのだが、とにかくEvaの心情吐露が細かすぎるほど細かくて、正直かなりうっとうしく感じることが多い(とにかく、彼女の説明が無駄に長い)。特に、プライドにあふれた成功したwhite, American, female独特の嫌味と、自分を正当化しようとする詭弁が、もう「勘弁してほしい」という感じ。
ただ、この種の少年犯罪では確かに「育てた親の責任」と思われることがあり、母親として自責の念を感じずにはいられない中、それでも「本当に私のせいなの?」と自問する気持ちはよくわかる。nature vs neuterは永遠のテーマであり、それを加害者の母親として問い続ける不安定な心理は本当によく書けていると思う。著者が言うように、結局はこの問いにeasy answerなどないのだが…。
物語は、「今は離れている」FranklinにEvaが手紙を書く形式を最後まで貫くのだが、読者はかなり早い段階から、Franklinが(そして途中からはCelicaが)いまどこに居るのか、気になってくる。それが気になって、最後までなんとか読む、というところだろうか。
文体は読みやすいのだが、語彙が非常に難しい。高学歴WASPの女性(しかも出版業のCEO)が語るにふさわしいelaborateな語彙のせいで、いまいち理解できない部分も。レアな語彙力を増やしたい人にはぜひお勧めの一冊。これほどWASPyな語彙をちりばめつつ、しかし文体的には読みやすい(内容が理解できる)小説は稀かも。
映画化されて、日本でも公開になるのだが、その邦題「少年は残酷な弓を射る」は、「ああ、なるほど」と思わせるタイトル。なぜかは読んでみてのお楽しみ。私の中では、Evaはサラ・ジェシカ・パーカー、Kevinはリバー・フェニックスか「ギルバード・グレープ」の頃のデカプリオ。映画も観てみたい気がするが、これを映画化してどうする?とも思う。つまり、メッセージ性がないのだ。これは本作を通して思ったことでもある。結局、一番知りたいところが「分かりえないよね」というところで結論付けられてしまう。それでは、この様な作品を書く意味はあるのだろうか?
ちなみに、本作が最終稿に入ったころに9-11が起こり、そのせいで(あんな大事件の後に、こんなdestructiveな作品誰も読みたがらないよね、私だって読みたいと思わないよ、と著者自らも認めている)出版にこぎつけるまでにかなり困難があったらしい。だが、イギリスでオレンジ賞も受賞している。あ、それから、著者には子供がいない。にもかかわらず、母親の心理が本当によく描けているので、小説家ってすごいな、って思う。
少年は残酷な弓を射る 上
稚拙な文だとわかっていても、こうして初めてレビューを書いてしまいたくなるほど、圧倒的な動力のある作品。
衝撃的な事件を起こした少年の母親エヴァの一人称で語られる話なので、所謂「信頼できない語り手」ではあるのだが、その点はとりあえず気にしないで、あるままの文章を黙々と読み進めた。上下巻でボリュームがあっても一人称かつ夫に語りかけるような口語なので、遅読の自分でも苦にならず読了。
一人称だからということもあるが、母親エヴァの自己分析における冷静さと行き詰まり感と投げ遣り加減のループが印象的で、事件後精神的に不安定であることを除いても、客観的であろうとする自分に飲まれていく危うさに、ああこれがエヴァという人なんだなと刷り込まれていく。
この物語を読むと、母親と子供の間に必ず存在すると信じられ疑われることなく深く根付いて長年揺るぐことのない「虚構の常識」たる美しい「母性神話」ついて思いを巡らせることになるのだが、そのまえにまず、エヴァという人物について、どんな思考、感性の持ち主なのか、ということが、一人称の口語で語られていくことで、唯一客観的観測地点に立つ読み手だけの思考や感性に基づく想像力や洞察力に委ねられているように感じられた。
それは、読み手自身が内包している「常識と名付けた思い込みや偏見」が問われることでもあるのではないか。
エヴァは頭がよく、神経質ながらも行動的で、与えられたレールの上を走るのではなく、ライフスタイルなりキャリアなり、自由や自分らしさを探し求めて常に自らが選択し、時には創造しながら、生きてきたように見える。
エヴァがあえて「世の中にはびこる女性に対する拘束的かつ圧倒的な常識=妊娠をして喜び子供を授かり感をし母親となり誰よりも我が子を愛する」というレールに身を投じることは、自分らしさと自分の中に潜む変化を求める創造力へのチャレンジの一つでしかない。
もしかしたら、エヴァは自分らしさを追求しつつも実は「他者から見られている自分らしさ」を追求していただけで、「そういう風に見られる自分が好き」であっただけなのかもしれない。
常に彼女は、自身で「選択できる自由」を謳歌し自己肯定かつ自己の確立をしてきた。にもかかわらず、選択できる自由の中で選択した結果が自分の意思に反し取捨選択できない苦しみとなって締め上げてゆくことになる。
話の端々から、同じ親から生まれ同じ家庭環境で育ったにもかかわらず、自分とは相いれる事のない兄と自分との違い、母と自分との関係性、自分が生まれ育った家庭、親、自分の資質とバックグラウンドが異なる夫との永遠に交わることのない意見の相違を、子供を持つことで浮き彫りにされ、重ね合わせてもがいているようにも見える。
ケヴィンの起こした事件の真相、深層心理はケヴィンをふくめ誰にもわからない。
この世の中の事象に、真相、というものが果たしてあるのかも問われているように感じられた。
でも事実を真正面から受け止め、迷宮の中茨の道を歩くことになるエヴァが、「他者から見られている自分」にとらわれることなく自分なりの母親像、二人なりの親子像を模索していくことで、エヴァはエヴァとして生きていくのだろう。
八月の光
原爆投下に遭遇した人間の三つの物語。まだ子どもの彼らは突然、惨状に投げ込まれ、子どもとしてあることの特権も奪われ、悲惨な風景の中で、時に過酷な判断を迫られ、時にただ影を愛おしむしかない。
原爆の悲惨さ以上に、原爆が人間の心に及ぼしたものを描いている本作は、語り継ぐための新たな方法の一つとして記憶されるでしょう。
We Need to Talk About Kevin
つい先日、コロラド州デンバーで24歳の大学院生が12人を射殺する事件がおこったけれど…。この物語は、1991年にコロラド州でおきた「コロンバイン高校乱射事件」を題材とした作品。同事件は、生徒二人が校内で銃を乱射して、死者12名・負傷者24名をだした大惨事で、アメリカにおける銃規制論争のきっかけとなったもの。
この物語の中では、Kevinが16歳になる3日前に高校で9人(生徒7人、教師1人、カフェテリアワーカー1人)を殺害する。物語は、母親のEvaが、夫(つまりKevinの父親)のFranklinに、手紙を書く形式で内省して、進んでいく。その手紙は、タイトル通り、we need to talk about Kevinというところに落ち着くのだろうが、そこに至るまでの細かなエピソードが実に緻密に、母親らしい視点で描かれている。と、いっても、Evaの苦悩は、一般的な「母親」のそれとはやや異なっている。Evaは大手出版社のCEO、夫は広告関係のフリーランスワーカーで、一家は裕福な白人の上流家庭。自分のアチーブメントとオリジナリティーを誇りに思うEvaは、そもそも子供を望んでいなかったが、愛するFranklinに請われて、「未知なる地(motherhood)に足を踏み入れているのもいいかも」と、遅くして子供をつくることにする。ところが、生まれてきたKevinを育てることは、何から何まで思うようにならない。Kevinの持つ奇妙な無気力感、アパシー、ニヒリズム、欲望の欠如、そして悪意……それらに対処しかねるEvaの心情が、「ねぇ、Franklin、わかる?」と夫に訴えかける形で徒然と続く。実に真に迫ってくる内容だし、リアリティーのある数々のエピソードはどれも秀逸なのだが、とにかくEvaの心情吐露が細かすぎるほど細かくて、正直かなりうっとうしく感じることが多い(とにかく、彼女の説明が無駄に長い)。特に、プライドにあふれた成功したwhite, American, female独特の嫌味と、自分を正当化しようとする詭弁が、もう「勘弁してほしい」という感じ。
ただ、この種の少年犯罪では確かに「育てた親の責任」と思われることがあり、母親として自責の念を感じずにはいられない中、それでも「本当に私のせいなの?」と自問する気持ちはよくわかる。nature vs neuterは永遠のテーマであり、それを加害者の母親として問い続ける不安定な心理は本当によく書けていると思う。著者が言うように、結局はこの問いにeasy answerなどないのだが…。
物語は、「今は離れている」FranklinにEvaが手紙を書く形式を最後まで貫くのだが、読者はかなり早い段階から、Franklinが(そして途中からはCelicaが)いまどこに居るのか、気になってくる。それが気になって、最後までなんとか読む、というところだろうか。
文体は読みやすいのだが、語彙が非常に難しい。高学歴WASPの女性(しかも出版業のCEO)が語るにふさわしいelaborateな語彙のせいで、いまいち理解できない部分も。レアな語彙力を増やしたい人にはぜひお勧めの一冊。これほどWASPyな語彙をちりばめつつ、しかし文体的には読みやすい(内容が理解できる)小説は稀かも。
映画化されて、日本でも公開になるのだが、その邦題「少年は残酷な弓を射る」は、「ああ、なるほど」と思わせるタイトル。なぜかは読んでみてのお楽しみ。私の中では、Evaはサラ・ジェシカ・パーカー、Kevinはリバー・フェニックスか「ギルバード・グレープ」の頃のデカプリオ。映画も観てみたい気がするが、これを映画化してどうする?とも思う。つまり、メッセージ性がないのだ。これは本作を通して思ったことでもある。結局、一番知りたいところが「分かりえないよね」というところで結論付けられてしまう。それでは、この様な作品を書く意味はあるのだろうか?
ちなみに、本作が最終稿に入ったころに9-11が起こり、そのせいで(あんな大事件の後に、こんなdestructiveな作品誰も読みたがらないよね、私だって読みたいと思わないよ、と著者自らも認めている)出版にこぎつけるまでにかなり困難があったらしい。だが、イギリスでオレンジ賞も受賞している。あ、それから、著者には子供がいない。にもかかわらず、母親の心理が本当によく描けているので、小説家ってすごいな、って思う。