サイタマノラッパー 商品

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映画の大ファンなので小説を購入。イックと千夏の馴れ初めはもちろんのこと、学生時代、ヒップホップや韻神との出会いなど、映画を補足するエピソードが散りばめられていて大満足。ラップするときの細かな心理描写もよかった。今、ここで、立って、自分の言葉でラップする、それがヒップホップだ!!アイデンティティやグミチョコレートパインなどに続く、非モテ音楽青春小説の新たなる幕開け!! SR サイタマノラッパー 関連情報

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映画『サイタマノラッパー』のラストシーンを観たときに、なぜだか『暗夜行路』を思い出した。『暗夜行路』の終わり方が尻切れトンボなので、あのあと主人公は死んでしまうのか、助かるのか、という読者の心配に対して、志賀直哉はあれでいいんだと断じた(と記憶している)。その記憶と、映画『SRサイタマノラッパー』の終わり方がダブった。たしか志賀直哉は、助かっても死んでも、どっちでもいいという心境に到達したところで筆をとめたのだと云ったはずだ。そのラストシーン―――。今日入ったばかりの坊主頭のおどおどしたアルバイトにレジ打ちを教え終えると、「ちゃんとやってよ!」と強い口調で厨房のなかに消えた店の女が、客のいる食堂に戻ってくると、その愚図な使用人が場所も立場もわきまえず何かを叫んでいる。それを見た彼女はさっき云った自分の言葉も忘れて、客に出すビールをのせたお盆を両手に、棒立ちになったままじっと見守り続ける。そこで彼女といっしょに私たちが耳にするのは、足元に杭を打ち込むようなリズムとともに、それまでの尻尾の切れたような弱々しい言葉とは打って変わった、「この半径1メートル」に根っこをはやしたイックの力強い、ときの声だ。私たちが眼にするのは、それまでポケットに突っ込んでいた両手を出し、空(くう)を叩きつける彼の握り拳だ。巨大な送電線の下の孤独な闊歩、新聞で読みかじった世界の不条理、寄せ集めの語彙、先輩の死、働かないことの負い目、ライブ崩れの圧迫面接、同級生だった女とのひねくれた会話、心ない仲間の裏切り…………。ずっとたまっていた、やりどころのない鬱々とした何ものかが、かつて夢を同じくした友との偶然の再会によって、言葉の奔流、一方的な相聞歌となって、堰を切ったように溢れ出す瞬間。するとそれまでイックに背を向け、うなだれていたトムがおもてを上げ……。私には、もうあれで充分だった。自分の言葉を「この半径1メートル」の外の世界に求めても無意味だと確信した人間と、同じように外部の社会に強いられて、自分のみじめな亡霊を胸のうちに抱え込んでいる人間との間に、歌(Call & Response)が生まれようとするまでの汗ばんだ時間。スクリーンが暗転したあとも、この物語を止めることは誰もできないだろう。少なくとも私は、面白半分で夢を追いかけようとしてきた意気地なしを、それでも人間を「ちゃんとやろうとしはじめた」不器用な二人の若者を、自分自身の瞼の裏側に映して、悪夢のようにずっと見続けることになるだろう。なぜなら、さっそうと東京へ出て行ったあのMIGHTYこそ、私だから。そういう人は至るところにいるに違いない。そう思った。さて、この映画の小説が出るというのでさっそく注文したのはいいが、だたのノベライズだったらがっかりだな、と思っていた。昨日届いた。ペーパーバックの手触りが心地よかった。書き出しに驚いた。こうきたか。映画のシーンがはっきりと思い浮かぶ。(映画を観ずに、小説を先に読んだらどうだったのかと思いながら読み進める)。小気味いい改行。おもしろい比喩。ビビッドな描写力。批評性。読みはじめたら止まらなくなった。そして終わり近く、266ページから文字面(段落の機能と比喩)ががらっと変わった。それまでの散文が韻文へとなだれ込んでいく瞬間だ。もう、これは詩だ! これはノベライズではまったくない。言葉の粒子が際だっている。リズム、リズム、リズム。魂の音が聴こえる……。もしかすると、このぺーバーバックを持って街に出ることが、一つの表現になるかもしれない。自分の生き方にあまり強い確信はないけれど、決然とゆるぎなく、どこかの片隅で、自分もまた出番を待っていることを表現するという。 SR サイタマノラッパー 関連情報

サイタマノラッパー SR サイタマノラッパー ‐日常は終わった。それでも物語は続く‐

堅苦しいことを書くつもりはないですが、こんな文章はどうでしょう。++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++「SRサイタマノラッパー(以下SR)」とは、問いを提起し、この問いに答えることで、欠けていた空白部分が少しずつ埋まっていくという性質のものではない。問いとは、人生の生と人間の歴史の内側に属するものであり、ここで生まれ、ここで死ぬ。問いに解答が見つかると、問いそのものが姿を変えてしまうことも多い。いずれにせよ、空虚な欠落部分に到達するのは、経験と知の一つの過去である。「SR」は文脈を所与のものとして受け取ることはない。「SR」は問いの起源と意味を探るために、答えの意味、問い掛ける者の身分を探るために、文脈に立ち戻る。そしてここから、すべての知識への問いを活気づけている<問い掛け>へと至るのである。<問い掛け>は、問いとは異なるものなのである。++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++この文章はメルロ=ポンティの『問い掛けと直感』という文章の「哲学」という言葉を「SR」に置き換えたものです。驚くほど、ぴったりくるじゃないですか!!だからといって「SRが哲学である」というオチをつけたいわけじゃないんです。(もちろん、実際、その側面もあるのですが)とりあえずのオチとしては「SRはとても実用的な道具である」です。説明しますね。まず、大前提としてプラグマティズムの意見を採用します。つまり、「哲学はとても実用的な道具である」ということです。冒頭の文章で「哲学」を「SR」に置き換えた理由はここです。つまり、この2ワードは交換可能であるということの証明です。たとえば、「面白かった」「感動した」「勇気づけられた」「泣いた」とかは<欠けていた空白部分が少しずつ埋まっていく>だけですから、すべて却下です。なぜならば、それらのリアクションは道具をきちんと使っていないからです。道具は使ってこそ価値が産まれます。問題なのは「どう使うか」だけでしょう。その意味で、本書はSRをそれぞれの人生でどう使っていくか、その説明書であり教科書であるという、極めて実用的なものです。もちろん、SRを最大限に活用しているのは監督及びスタッフだと思います。しかし、作品の鑑賞者だったり、この書籍の読者にだって、同じレベルでその道具を使用することができるはずです。もしかすると、この先、SRクルー以上に「上手に道具として使う」人だって、「未来へと道具を届ける」人だって、あらわれるかもしれません。(その場合、SR=道具はさしずめバトンですね)その使い方が「一歩 二歩 Keep on Moving」ってことでしょう!!せっかくの説明書なんですから、思う存分使いましょうよ、みんなで!!(サントラを聞きながら読むのが超絶オススメです!!!!!!!!!!!!!!) SR サイタマノラッパー ‐日常は終わった。それでも物語は続く‐ 関連情報

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出だしはひどくちゃっちいし、つまんなく映るのは仕方ない。でも、本当にラストシーンは震える。近年の邦画では見たことないほどの、映画的感動が待っている。何かに夢中になることは、最高にカッコ悪くてステキなことだ。 SR サイタマノラッパー [DVD] 関連情報

サイタマノラッパー SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者 O.S.T.

地方都市を舞台とした映画やのに地方の上映が少ない少ない。宇多丸師匠のシネマ・ハスラー評と合わせて聴いてなんとなく内容が浮かんできた。イックさんとトムをヒップホップ天使と表した宇多丸さんに賛同。 SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者 O.S.T. 関連情報




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