金田一秀穂 商品

金田一秀穂 金田一家、日本語百年のひみつ (朝日新書)

本書のタイトルは『日本語百年のひみつ』とあって、帯にも日本語論を紐解くような雰囲気(「金田一さん、日本語は大丈夫ですか?」)が窺えるが、概ね内容は(第1部第1章・第3章などを除いて)、金田一家(京助・春彦)の随想・回顧録、もしくは著者の祖父・父や家族に関するエッセイと言って良い。構成・内容はこのページの上の「商品の説明」に詳しいので、本稿では取り上げないが、本書のコンセプトはエッセイと観ても雑多なトピックが多く、時折何がしかの日本語(断片的表現・単語)に関する蘊蓄(トリビア)を取り上げるものの、タイトルや帯の宣伝コピーに見えるほど専門的な「日本語」論や語学論を紐解くものではない。また第2部第3章では、突如として「春彦・秀穂ニホンゴ対談」が登場する。春彦氏は2004年(享年91歳)に没しているので、いつの頃かと思いきや、それらしい対談形式を踏んでおきながら「造られたもの」と「あとがき」での種明かしがあって、些か落胆させられる。「親子の対談の本物など、恥ずかしくてお見せするわけにはいかない」(220頁)からと言って、それらしく体裁を整えた「造られた」ところの「対談」が現実化するわけでもあるまい。他方、“文 革”終結直後の父・母との旅行記など(第2部第2章)、第2部のトピック構成からは、京助・春彦両氏(の事蹟)を偲ぶ回想的エッセイと言うべきだろう。著者の祖父・父である金田一京助・春彦氏と言えば、私の小学・中学時代には、共に国語辞典の編纂(編集責任)者で目にする著名な学者であった。京助及び春彦氏の編纂国語辞典は私自身が使用した記憶もあって、右両氏が親子であることを知ったのは中学の頃だったような記憶がある。苗字が珍しいので記憶に残りやすいのである。第2部第4章では「三代目・秀穂のでき上がり」とのトピックがあるが、私が著者を知ったのは失礼ながら、著者が「決まりが悪い」(195頁)と自嘲するテレビのクイズ番組である。本書では祖父・京助氏が本来はアイヌ語研究、父・春彦氏が日本語の研究を専門としていたのは良く伝わってくるのだが、著者自身の研究については「日本語を外国人に教える」(162〜163頁)こととあるも、多少判りにくいものがある。著者に依れば「学習者たちの母語と日本語の違い」を知ることが肝要らしいが、比較言語学的要素もあると言うことだろうか。閑話休題、かかる金田一家の特質を観るとき、京助・春彦氏という偉大な研究者の事蹟、別言すると“金田一”ブランドを綴る本書の筆致には、どことなく諦観めいたもの(醒めた情感)が感じられるのは私の気のせいか。第1部第1章などはさておき、断片的に織り混ぜられるトリビア的なトピックも見受けられるが(82頁:〜ています、169頁:左利きの熊など)、全体としては『金田一家』の(祖父・父の事蹟に関する)回想・随想的エッセイである。私見を言えば、前段で示したように雑多な構成(第1部第1・3章の日本語論と第2部の金田一家回想エッセイ・「造られた」対談など)が災いして、読後の印象の薄さをもたらしているように思う。 金田一家、日本語百年のひみつ (朝日新書) 関連情報

金田一秀穂 この「言い回し」で10倍差をつける (小学館新書)

 帯の惹句に惹かれて購入してみた。普段、何げなく使用している「申し訳ございません」というのが、厳密にいえば誤用だったのかとわかった。「申し訳ない」「とんでもない」までが一つの言葉。たしかに「申し訳ある」「とんでもある」って使わないから、なるほどと会得した。ほかにも、冒頭のDJポリスの話術など実用的でいろいろな場面で役立つと思う。「御社を他山の石にしまして~」、目上の取引先担当者に「お世話様です」というのが実は失礼に当たり、言葉に厳しい方の眉を顰めさせてしまうという。 とはいえ、これは使用してはいけない、間違いである、といった説教くさいものではない。意思がきちんと伝わり、かつ「相手を言葉で敬うこと」ができればOKという金田一氏の考え方には共感できる。そういえば、上司にも平気で「了解で~す」「それ違うんじゃないんですか?」とか平気で使っているなあ・・・・・・。この本読んで反省した。GW明けから少しずつ直していこうっと。 それにしても、日本語って難しい。よくよく考えると英語の方が単純だよなあ、と今更ながらに思わされる。 この「言い回し」で10倍差をつける (小学館新書) 関連情報




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