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僕もまた、その光に向かって歩み出す。
これは,この小説の最後の一行である。この最後の一行が心に残った。
この小説は,『なんとなく、クリスタル』に対する33年後の言わばアンサーソングである。その「物語」,の物語であった。
主役は,僕(ヤスオ)ではない。まして由利や他の登場人物でもなく,著者でもない。それは,「なんとなく、クリスタル」というタイトルそのものである。
では,「なんとなく、クリスタル」とは何か。「なんとなく、クリスタル」というイメージは,簡単な言葉(フレーズ)で説明することが難しい。この小説(「いまクリ」)も前作(「もとクリ」)も,ドラマのないドラマであり,心に訴えかけるような感動するフレーズは存在しない。その代わりに,サービス精神の旺盛な著者は,「なんとなく、クリスタル」のイメージとして,この小説の文中に,キャッチフレーズのようなもの,読後感として使える“決めの言葉(フレーズ)”のようなものを用意していた。それは,例えば,「たった一本の口紅や化粧水でも、勇気と希望を与えられる」とか,「透き通ったガラスのイメージ」とか,「ささやかだけど、確かなこと」とか,「微力だけど無力じゃない」とかが,そうである。敢(あ)えて便宜的な区分けをすれば,ジャンルは,ある意味で,ヌーヴォー・ロマン(アンチ・ロマン,反小説)や,やおい小説(山なし・落ちなし・意味なし)に近い。
“記憶の円盤(ディスク)”で『なんとなく、クリスタル』にプレイバックすると,次の一節を照らし出す。
なんとなく気分のよいものを、買ったり、着たり、食べたりする。そして、なんとなく気分のよい音楽を聴いて、なんとなく気分のよいところへ散歩しに行ったり、遊びに行ったりする。
(中略)なんとなく気分のいい、クリスタルな生き方ができそうだった。
国語辞典を開くと,「なんとなく」は,(1)特にどの点がそうと限定出来ないことを表わす。(2)特に意識しないで何かを表わす,とある。また,「クリスタル」は,(1)水晶。(2)透明度の高い高級ガラス(の製品)。(3)ロッシェル塩などの結晶,とある。塩で思い浮かぶのは,「あなたたちは地の塩である」(マタイによる福音書5章13節)という一節である。地は「大地(地上)」の意味であり,塩は「必要不可欠」な存在や「代替不可能」な存在という意味である。よって,この地上で,あなたはかけがえのない存在である,ということだ。クリスタルとは,自分は「かけがえのない存在」である,ということである。「なんとなく」(縦文字感覚)という多様性・曖昧性と,「クリスタル」(横文字感覚)という自己証明(アイデンティティー)のアンバランスさが,対立するのではなくアウフヘーベン(止揚)して「なんとなく、クリスタル」のイメージをかもしだしている。
再び,プレイバックすると,次の一節を照らし出す。
「クリスタルか……。ねえ、今思ったんだけどさ、僕らって、青春とはなにか! 恋愛とはなにか! なんて、哲学少年みたいに考えたことってないじゃない? 本もあんまし読んでないし、バカみたいになって一つのことに熱中することもないと思わない? でも、頭の中は空っぽでもないし、曇ってもいないよね。醒め切っているわけでもないし、湿った感じじゃもちろんないし。それに、人の意見をそのまま鵜呑みにするほど、単純でもないしさ。」
(中略)
「クールっていう感じじゃないよね。あんましうまくいえないけれど、やっぱり、クリスタルが一番ピッタリきそうなのかなー。」
思えば,その当時は気付かなかったことだが,著者の言いたいことや言うべきこと(思想)が内包されていた。それは,ショッピングやファッションや食事(物質性)と教養(精神性)は,等価である,ということ。セックス(形而下的なるもの)と哲学(形而上的なるもの)は,等価である,ということ。すなわち,ものがすべて等価である,ということだ。とすれば,本書の読み方(「もとクリ」,「いまクリ」)も,順番は問題ではない。しかも,「小説」だけを読んでもいいし,「註」だけを読んでもいいし,「小説」と「註」を同時並行で読んでもいい。なぜなら,「小説」も「註」も「小説・註」も,すべて等価であるのだから。
星霜を経て,この『33年後のなんとなく、クリスタル』は書かれた。33年後も「なんとなく、クリスタル」である。「たまらなく、クリスタル」でもなく,「いつまでも、クリスタル」でもない。なんてったって,「なんとなく、クリスタル」でなければならないのだ。なぜなら,それは,著者の原点であると同時に,著者の到達すべき時代と人生の切点でもあるのだから。1980年と2013年の時代の空気を描出した『33年後のなんとなく、クリスタル』の一節を引用する。
そうして当時は、全国津々浦々で真っ当に働き・学び・暮らす老いも若きも、それぞれに夢や希望を抱いていたのだ。パステルカラーに彩られた“一億総中流社会ニッポン”の一員として……。でも、なんだかずいぶんと“昔みたい”に思える。
飢餓や疫病に苦しむ、凄惨な状況ではない。けれども、日々の暮らし向きの中で人々は、少なからず“喉の渇き”を感じているのだ。“思想や良心”といった一人ひとりの立ち位置を超えて誰もが、日本の現在に、そして未来に。
1980年では,“一億総中流社会ニッポン”の一員として,老いも若きも,それぞれに夢や希望を抱いていた。しかし,2013年では,日々の暮らしの中で,誰もが少なからず“喉の渇き”を感じているという。日本はちっとも変わらない。だから,著者は,これまで書いたり・しゃべったり・動いたりしてきた。多少は変えられた部分(こと)もあるかも知れない。でも,それは,全体の中では,ほんの小さな事柄(こと)でしかないのかも知れない,と現在の心境を述懐する。と同時に,今の境遇ではいかんともし難い。歯痒(はがゆ)いけれど,語り,そして書くしかない,と真情を吐露している。
前述した<地の塩>のあとに,「あなたたちは世の光である」(マタイによる福音書5章14節)という一節が続く。<地の塩>と<世の光>は対になっている。世は「世界(宇宙)」の意味である。光も「必要不可欠」なものという意味である。よって,この世界で,あなたはかけがえない存在である,ということだ。しかし,「地」も「世」も大地や世界という意味よりも,「神なき現実」「人間の尊厳を失わしめるような状況」の代名詞である。(その詳細は,ミッション系大学のスクール・モットー「地の塩,世の光」を参考にするとよい。)このことから考えてみると,著者はクリスチャンではないが,その心の支えになっているのは基督教ではないだろうか。(ちなみに,著者は好きな作家として川上宗薫,大藪春彦を挙げている。大藪春彦の作品では,『荒野からの銃火』が私の記憶に残っている。)
僕もまた、その光に向かって歩み出す。
「誰(た)そ彼(かれ)」は,貴方は誰ですかを意味する。それが,いつしか黄昏(たそがれ)と表記されるようになった。「彼(か)は誰時(たれどき)」は,彼が誰なのか訊かなければ判らない,ほの暗い時間帯の朝方と夕方,その両方を意味していた。いわゆる世の光は,「たそがれどき」と「かわたれどき」のどちらであるだろうか。また,そのどちらに思えるだろうか。神なき国の現在に,そして未来に。
たそがれどき。かわたれどき。(中略)そのどちらにより近い光の加減に思えるだろう。
これに続く最後の一行は,「僕」が語り手であるならば,「僕は、その光に向かって歩み出す。」と書くのが普通である。しかし,なぜ「僕もまた、」と書いたのだろうか。この最後の一行は,じつは主人公の「僕」に寄り添う著者の「僕」が隠喩されている。それは,「きっと、いろんな壁が待ち受けているんだろうな。(中略)身の丈にあった自分の生き方で、歩んでいくのよ」という由利の科白(せりふ)とともに。この「僕もまた、その光に向かって歩み出す。」という最後の一行は,著者のマニフェスト(宣言)である。なぜなら,「なんとなく、クリスタル」は,著者の原点であると同時に,著者の到達すべき歴史と永遠の切点でもあるのだから。ときめいた瞬間と背中合わせの寂しさや空しさ。「なんとなく、クリスタル」という瞬間は,脆(もろ)く儚(はかな)く,移ろいやすいものであり,永遠に続くわけではない。だからこそ,それを求める価値があるのだ。
本書が,エヴァンゲリオン(福音)になることを願ってやまない。
33年後のなんとなく、クリスタル 関連情報
学生時代に読んだのだが、「33年後のなんとなく、クリスタル」とパラレルに読み返してみた。
懐かしさもあるが、時代は変われど小説として色あせていない。
読み返してそのことに驚いた。
当時の世相を著した作品だからどうかなと思ったけど、主人公とほぼ同世代だからなのか、未だに共感を覚えつつ読めた。
とくに「33年後のなんとなく、クリスタル」を合わせて読むと味わい深いのではないだろうか。
新装版 なんとなく、クリスタル (河出文庫) 関連情報
邦画の戦争映画といえば概ね重苦しい雰囲気が漂い戦争は悲劇で悲惨なもので何一つ良い事など無いといったことに終始する。実際の戦争(戦場)が悲惨な殺し合いでしかなく、戦火に巻き込まれた一般市民はもとより召集軍人にとっても戦争が辛く苦しいものだということに異論は無い。が、そういった面ばかりを強調する映画が大半を占めることにも辟易する。戦争を賛美したり特攻隊を美化し英雄視するつもりはないが、現在の価値観で過去の出来事を判断し当時が不幸に満ちた時代だったとするだけでは今とは何の繋がりのない時代劇にしかならない。
時代背景や国がどうあれその時を生きた若者にはその時代の若者なりの喜びや楽しみが(もちろん悲しみや苦しみも)存在していた。その当時の若者が憧れた飛行機乗りという喜び楽しみという視点からこの時代・特攻隊を描こうとした狙いは素晴らしい。だけどその狙いを映画としては活かしきれいていないのが本当に残念。映像的にも中途半端なCGや飛行シーン等は一切無くても良かったと思う。
結局この映画以降も邦画では悲惨さを強調する戦争映画やテレビドラマが主流だけど、この作品の視点を活かした映画をいつか見てみたい。
君を忘れない [DVD] 関連情報
文庫版,ぼくだけの東京ドライブを持ってましたが,字も小さいし,装丁も綺麗なので購入しました。
一つの時代,自分の記録として愛蔵版になります。
たまらなく、アーベイン 関連情報