アマロ神父の罪 商品

アマロ神父の罪 アマロ神父の罪 [DVD]

 メキシコの小さな町の教会へと赴任してきた若き神父アマロ。教会の主であるベニート神父は食堂の主人サンフアネラを愛人としていた。その娘アメリアは熱心な信者であり、信仰心の足りない恋人の新聞記者ルベーンに愛想をつかしている。 やがてルベーンが、ベニート神父と麻薬王の関係や、別の神父ナタリオが解放の神学派としてゲリラ支援をしていることを記事にしたことから、信者の間にさざ波が立ち始める。その渦中でアマロ神父もアメリアとの間で後戻りの出来ない事件を起こしてしまい…。 聖職者と信者との肉欲、堕胎、社会的抑圧を受ける貧困層との踏み込んだ連帯、結果的に資金洗浄に荷担することになる病院建設。こうした行ないは、教会と信仰とに生活の拠り所を見る人々にとって、また仏教徒である私にとっても、肯んじえないものです。 しかしこの物語とともに歩むと、彼らの行ないを「罪」として一刀両断することが、あまりに一面的な物の見方ではないかと思い始めます。彼らのそれぞれの行ないの根にあるものが観る側の心にないと真に言えるのか。 そして私は、姦淫の罪で律法学者とパリサイ人によって引き出された女を前にキリストが語った「汝らの中で罪なきものがまずこの女に石を投げよ」という言葉(ヨハネの福音書8:7)のことを思うのです。 人間は自らが築いた社会制度の中で生きる者です。その制度の中での位置を維持する過程で取り繕いを重ね、時に悲劇を生んでしまいます。決して言い訳は出来ませんが、人間はそんな脆さがあるからこそ人間的であるといえる、哀しき存在なのです。 アマロはこの先の人生で「罪」に対する呵責とどう向きあっていくのでしょうか。 見終わった時に、アマロ神父を「うまくやった奴」とは決して見ていない私自身を発見しました。ガエル・ガルシア・ベルナルの他の主演映画同様、これもまた、人生のままならさを味わう映画なのです。 アマロ神父の罪 [DVD] 関連情報

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 日本で、聖職者の汚職というニュースが、新聞の一面を賑わすことがあるだろうか。芸能、スポーツ、もしくは政治家、警察官の汚職などに関する記事はよく見かけるが、日本の教会や聖職者に関する記事を目にした記憶が、僕はほとんどない。たとえあったとしても興味を引かれるかどうか。 聖職者の汚職という題材を選んだメキシコ映画、『アマロ神父の罪』。メキシコに住む人たちは、教会や聖職者の醜聞に対して、日本よりもずっと敏感なようだ。では、一部の敬虔なクリスチャンなんかを除いて、ほとんどの日本人は、本作を踏み込んだ姿勢で観れないのか。心配無用である。『アマロ神父の罪』が見つめるのは、聖職者の汚職とそれを取り巻くキリスト信者、ではなく、それらを通して浮き彫りになる、人生の選択の瞬間に迫られる人間の姿なのだ。 メキシコ、アルダマのロス・レジェスという街の教会に赴任してきた神父、アマロ(ガエル・ガルシア・ベルナル)。端正な顔立ちも手伝って、街にも教会にもすぐに馴染んでいく彼だったが、やがて教会の腐敗を目にし、巻き込まれていく。そして自身も、敬虔なキリスト信者で美しい容貌を持つ娘、アメリア(アナ・クラウディア・タランコン)に惹かれていき、「罪」を背負うこととなる。聖職者としての自分、男としてアメリアを愛する自分。相反する二つの人生を背負ったアマロは、この時から、人生の選択を次から次へと迫られることになる。最初の利己的な選択から、最後の衝動的な選択まで、アマロが分岐点で選んできた道は、どれも、善と悪で区別することはできない。ただ、人生の選択の瞬間に迫られたアマロの、揺れ、震え、柔軟さ、窮屈さ、そこに立つ人間の姿が、日本とメキシコとか、仏教とキリスト教とかの壁を越えて迫ってくるのだ。 アマロ神父の罪 [DVD] 関連情報




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