断水 商品

断水 断水の日

災害と国民の科学リテラシーについての著者の嘆きが聞こえる。時期的にみて、大正10年12月8日の龍ケ崎地震に、著者が被災したときの回想だろう。当時の東京でもかなり揺れたようである。このときに断水してしまったようで、ほかにもエレベーターの破壊など、科学の手によって建造されたものでも、耐用年数をすぎてばどうなるのか、想定外が起こるとどうなるのか、著者の懸念の通りである。工学ではどうしてもそういう限界を設けざるを得ないが、どうしてもいたちごっこになる。安全性を極限まで追求するには実験が不可能だったりコストがかかりすぎたりしてしまう。
この頃、著者が子供の描いた太陽の絵をみて、科学的に間違いまみれで憤慨している。科学の通俗化や啓蒙はそれはそれで重要なのだが、下手な比喩や説明では、かえって誤解され、伝言ゲームで情報が変化しデマが広まるようにかえって誤った科学観を植え付けかねないのではないか?わかっていることと、わからないことの違いや、そもそも何を最低限必要なこととするかなど難しい。科学は丸暗記でもなく、いかにして知識を応用するかということが重要なのであって、結論だけが一人歩きしてしまっては意味がない。著者もそういったすでに解明されている科学すら通俗化によって啓蒙書などの表記では一般市民には誤解されていることを懸念している。わからないことの議論があるのはよいが、科学の細分化と情報過多、国民の総痴呆化で著者の懸念はますます深刻化しているように思えてならない。小学校レベルの理科ですらわからない奴が多すぎるし、そういう者がやる気があってもゼロからでは勉強するのが難しい。通俗書レヴェルからはじめて小学校の内容もわからない者が高校から大学教養レヴェルぐらいまで、独学でもなんとか学べるシステムは作れないのだろうか?国民の科学力を上げるには課題は多い。資格にしても理系のものはほぼ技術者向け国家資格しかないし、理系の通信制大学は国内に一切存在しない。21世紀に入ってむしろ更に事態は深刻化している。 断水の日 関連情報

断水 必生 闘う仏教 (集英社新書)

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