摘録 断腸亭日乗〈上〉 (岩波文庫)
大正11年7月9日、森鴎外没。
「森先生は午前7時頃遂に紘を属せらる。悲しい哉」(紘は本来旧字で、糸へんに廣)
全集には振り仮名がなく、読みかたが分からず難儀したが、文庫は振り仮名があるのがいい。
属紘(しょくこう)とは臨終の意で、紘(新しい綿)を口や鼻につけて、呼吸の有無を確かめたことからいう。
以上、私註。
それはともかく、摘録ではいかにも物足りない。
荷風は東京では人気あるし、岩波が出さないならどこでも、全編文庫本で出したらいいのにねえ。
草の花―俳風三麗花
それぞれ境遇の異なる3人の若い女性たちが句会で出会い友情を育む。読後のあと味の良い小説です。句会の始まりから終わりまでの描写がとても楽しい。3人のヒロインは医師の卵壽子、若妻ちえ、芸者松太郎でそれぞれの場所で自分らしく生き抜こうとします。年代は昭和初期から終戦直後まで。舞台は東京市から満州へ。次々に登場する脇役は川島芳子、甘粕大尉、満州皇帝溥儀など一癖ある人物ばかり・・・・。壽子を支える東京女子医専同窓会ネットワークの手厚さに感動!それに、松太郎の機転で永井荷風が句会に飛び入りとは!著者の俳句に対する愛情の濃さをしっかりと受け止めました。ご近所の俳句の先生(70代女性)にお勧めしたら「面白いわあ、こんな小説があるなんて!」とお喜びでした。
ふらんす物語 (岩波文庫)
荷風は明治政府が大嫌い、警察が大嫌い、軍隊が大嫌いという人でした。『ふらんす物語』の中で、駐在している日本人が明治政府をこき下ろすシーンがありますが、荷風の真骨頂です。(今日にもあてはまりそう・・)
また荷風は敬愛する人の墓参りをするのが好きな人で、自分を見いだしてくれた森鴎外の墓へ何度もお参りしていましたが、かの地でもモーパッサンの墓へお参りしています。ちなみに私は特にこの章の文章が好きです。
主人公が、通りにいる街娼を見たところ、実にそのすべてと関係していた自分に驚くところは笑ってしまいました。
この小説が「発禁処分」などとは今ではとうてい考えられませんが、一発で「発禁処分」になったということは、当時の日本は相当病んでいたといわざるをえません。
四畳半襖の下張 [DVD]
音声として流れてくるのは、永井荷風著と言われる『四畳半襖の下張』の朗読と BGM 及び効果音のみである。出演者の台詞は一切ない。しかし、この手法は悪くない。本作品が重要視したと思われる、男女の内面の機微(女の内面は作者の想像によるものだが)が、出演者の演技のみによる場合よりもうまく描き出されているからである。
そして、本作品のメインとなっているのはある一晩の情交で、全体の半分を占めている。男女間の行為や心理をここまでピンポイントで捉えようとした作品は他にないだろう。究極のポルノ作品と呼べるのではないか。
後に三浦敦子に改名した村上あつ子の初主演作品であるにも関わらず、本人も事務所も現在そのことに触れないのは、台詞が全く無く、主演男優のホリケン。との裸での絡みがほとんどと言う演出のためか? 女優としての肩書きに傷のつく、知られたくない過去なのかもしれないが、三浦敦子ファンなら押さえておきたい作品である。
脇役の女優陣(國貞加奈、森未向、幸さえこ、笠原けいこ、小代恵子、中谷友美、坂口絵里子、竹之内かな)もほとんどのシーンでトップレス状態だが、白塗りメイクと顔のアップがあまり無いため、エンドロールを見るまで、そんなに多くの出演者がいたことには気付かない。
摘録 断腸亭日乗〈下〉 (岩波文庫)
「断腸亭日乗」摘録 (下)は昭和12(1937)年1月元日から初めて最後の昭和34(1959)年4月29日までの日記を分載します.全てを書き終えた荷風はその翌日の夜半,着の身着のまま万年布団の上に大量に吐血し,そのまま絶命しました.下巻も摘録です.日付の欠落があります.全てを望む方々に全集を薦めます.
本書のクライマックスは米軍大空襲による3度の被災記録です.いずれも臨場感に溢れ,これぞ荷風流の名調子です.この迫力に比べると内田百閧フ「東京焼盡」はいかにも軽く,空襲の恐怖は読めません.内田百閧ヘ傍観者的立場,他方荷風は体験者の立場,筆の運びに雲泥の差が生じて当然です.最初の罹災は昭和20年3月10日の空襲でした.このとき彼の根城,偏奇館は西北の熱風に煽られ,一気に燃え上がり,焼け落ちます.その描写はつとに有名です.私はこれを復唱せず,2度目と3度目の空襲の模様を以下に紹介します.前者は避難先の東京中野のアパートにおいて,後者は東京を脱出して明石に至り、更に岡山へ逃れて旅宿し,そこでB29に爆撃されました.
昭和20年5月25日.(前略) 夜サイレン鳴りひびき忽ち空襲を報ず.余はいはれなく今夜の襲撃はさしたる事もあるまじと思い,頗る油断するところあり,徐に戸外に出て同宿の児女と共に昭和大通傍らの壕に入りしが,爆音砲声刻々激烈となり空中の怪光壕中に閃き入ること再三,一種の奇臭を帯びたる烟風に従って鼻をつくに至れり.最早壕中にあるべきにあらず.人々先を争ひ路上に這ひ出でむとする時,爆弾一発余らの頭上に破裂せしかと思はるる大音響あり.無数の火塊路上至るところに燃え出で,人家の垣根を焼き始めたり.余は菅原氏夫妻と共に相扶けて燃え立つ火炎と騒ぎ立つ群衆の間を逃れ,昭和大通上落合町の広漠たる焼け跡に至り,風向きを見はかり崩れ落ち残りし石垣のかげに熱風と塵烟とを避けたり.遠く四方を焦がす火炎も黎明に及び鎮まり,風もまた衰えたれば,おそるおそる烟の中を歩みわがアパートに至り見るに,既にその跡もなく,ただ瓦礫土塊の累々たるのみ.(中略)昨夜逃げ入りし壕のほとりにアパートの男女一人一人集り来り,涙ながらに各々その身の恙なかりしを賀す.
昭和20年6月28日.晴.旅宿のおかみさん燕の子昨日巣立ちせしまま帰り来たらずを見,今明日必ず異変あるべしと避難の用意をなす.果たしてこの夜二時頃岡山の町襲撃せられ火一時に四方より起これり.警報のサイレンさへ鳴りひびかず市民は睡眠中突然爆音をきいて逃げ出せしなり.余は旭川の堤を走り鉄橋に近き河原の砂上に伏して九死に一生を得たり.
一人の人間が短期間に3度も大空襲をうけ,いずれの時も命からがら逃げ出すとは殆どあり得ない不運です.戦地でない日本内地ではあり得ません.荷風は既に67歳でした.爆撃3度で痛められ,心身疲弊の極限に達していたと想像します.しかし幸いにも彼に罹災記録を残す余力は残っていました.お陰で後世の私たちは追体験できます.まもなく荷風は敗戦の日を岡山で迎えました.その日の記述は以下の如し.
昭和20年8月15日.陰(くも)りて風涼し.(中略)S君夫婦,今日正午ラジオの放送,日米戦争突然停止せし由を公表したりと言う.あたかも好し.日暮れ染物屋の婆,鶏肉葡萄酒を持来る,休戦の祝宴を張りて皆々酔うて寝に就きぬ.
昭和天皇の終戦の辞に荷風は一言も発しません.敗戦など真珠湾奇襲の時から分かっていたこと,何を今更白々しいと感じたのでしょう.「あたかも好し」が全てを語っています.同盟国ドイツとイタリアの敗戦が決まったときにも「新聞紙ヒトラー,ムソリーニの二凶戦破れて死したる由を報ず」と,簡潔に済ませます.けだしわが皇軍は荷風にすれば凶にして悪の存在でした.
永井荷風はここまでの存在です.日米戦争が荷風の全てを破壊しました.以後,死を迎えるときまでの14年の間,彼は殆ど何も残しませんでした.女への情欲は消えていますが,若い女が好きなのは変わりません.浅草のストリップ劇場の楽屋などに連日入り浸り,踊り子の写真をとってやに下がる好色爺さんになり果てていたのです.文学者の誇りも気概を無くした荷風はやがて文化勲章を授かります.あれほど官を憎み,軽蔑していた荷風にして何と云う変わり方でしょうか.勲章なんてものは吾に不要と拒絶の姿勢を貫いて欲しかった私ですが,零落著しい荷風は年金欲しさになりふり構っていられなくなっていたのでした.哀れなるかな,荷風散人.葛飾の陋屋に窮死するのは時間の問題です.