花と龍〈下〉 (岩波現代文庫)
自伝的小説の下巻です。
まさに壮大、そして読ませる文章。
最後まであっという間に読んでしまいました。
暴力を良しとしない男は
何度も命の危機を迎えます。
そして中々うまく行かずに時に滅入り
妻に叱責され…
一番の見所は
そんな金五郎が禁を犯して
脅迫と言う行為を行うこと。
それだけ彼が切羽詰っていたことが
判るかと思います。
そしてもう1つ、
彼の人生が決まったきっかけとなった
女性を看取る場面。
男と女、その複雑さ
運命の残酷さが描かれています。
運命は彼女に味方をしなかったようです。
そして、終焉も美しいです。
決して結末とはいえないけれども
すごく美しいです。
長いですが
一読の価値は十分です。
花と龍 [DVD]
原作者は火野葦平。
舞台は九州、福岡、若松。そこの荷揚げ人足(ゴンゾウ)たちの頭になった男とその妻の豪快な話し。
時代はそもそも明治。歯時計思い切り逆回転させないといけない。渡哲也と香山が主人公を演じる。古ぼけた倍賞知恵子の妹がいかさま博打の壺ふり。
おお!いい作品。★は4つ。
いい時代だった。
花と龍〈上〉 (岩波現代文庫)
この作品の最大の面白さは主人公の金五郎とマンというふたりの人物の魅力に尽きると思う。
お互い自分の夢を持ちつつ信頼しあってまっすぐに生きているふたりの姿に、読んでいるこちらまで
元気になってくる。二人を取り巻く女彫り物師や港湾労働者たちも生き生きと描かれ、
彼ら魅力的な登場人物たちが暴力団との抗争などスリリングな事件で活躍する様は
勢いがあって小気味いい。読んでいくうちにどんどん話に引き込まれ、とまらなくなる。
著者の両親がモデルのようだが、痛快な物語だ。
文士の戦争、日本とアジア (新・日本文壇史 第6巻)
葦平、泰次郎、泰淳、知二、順、宏、鱒二、道夫……、文士が、続々とアジアの戦場に出る。彼らは満州から中国、フィリピン、シンガポール、ビルマ、インド……、大東亜共栄圏のために積極的にしろ消極的にしろ陸海空で戦う。
そして著者は読者を道ずれに、にわか戦士となった文士のその足跡を、執拗に追う。追いながら、その抽象的な戦争体験ではなく具体的な戦場体験を疑似追体験しながら生々しく執拗にあぶりだす。戦争体験と戦場体験は天地ほども違う。
戦場は普通の市民を狂気に駆りたて、精神を錯乱させて地獄の亡者に変身させる。この世の修羅に全身を晒した彼らにとって、もはや理非曲直を冷静に判断することはできない。頭でっかちの歴史観は蒸発し、血と殺戮と動物的本能だけが彼の知情意を支配するのだ。
兵士相手の慰安婦たちの手摺れた肉体にはない村落の中国人女性の肉体を犯すことでおのれの肉体奥深く仕舞いこまれていた官能の火が消せなくなった文士がいる。中国兵を殺さざるを得なかった文士がいる。そして、それは、僕。それは、君。
中国女を強姦し、中国兵の捕虜を斬殺し、強盗、略奪、放火、傷害その他ありとあらゆる犯罪を意識的かつ無意識的に敢行する「皇軍」兵士と、その同伴者の立場に立たざるを得なかった文士たち。この陥穽を逃れるすべは当時もなかったし、これからもないだろう。
ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す 宮柊二
恐ろしい句だ。悲愴で真率の句だ。そして彼らは、この惨憺たる最下層の真実の場から再起して、彼らの戦後文学を築き上げていったのである。
私たちは、「戦争はいやだ。勝敗はどちらでもよい。早く済さえすればよい。いわゆる正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい」、という井伏鱒二の言葉をもう一度呑みこむために、もう一度愚かな戦争を仕掛けて、もう一度さらに手痛い敗北を喫する必要があるのかもしれない。
糞尿譚・河童曼陀羅(抄) (講談社文芸文庫)
火野葦平のベストセラー小説「花と龍」は葦平の父親である玉井組の親分が主人公になっているが、
その玉井組には親分を慕って色々な人達が出入りしていた。
「糞尿譚」のモデルになった人物もその中にいたらしい。
主人公が「大将」と呼ぶ支援者、赤瀬氏は
葦平の父親がモデルになっているのは言うまでもない。
温泉で赤瀬が対立する有力者と一緒になる場面は「花と龍」でも
ほとんど同様に描かれており興味深い。
糞尿汲取り業という社会の底辺にいる弱者が
地元有力者や役人たちの思惑が複雑にからむ社会構造の中で、
もがき翻弄される構図は、社会全体の縮図の様でもある。
主人公が柄杓で糞尿を撒き散らすラストのシーンは、
主人公にとっての精一杯の反乱なのだが、
不思議に痛快な気分にさせてくれる。
「河童曼陀羅」の方は、河童の短編が43篇収録された豪華本の中から、
12篇を著者自身が自選したもの。