写楽残映 胡蝶屋銀治図譜 (ベスト時代文庫)
この第一巻は、寛政期の版元、蔦屋重三郎初代の周辺から幕を開け、彼と、山東京伝、太田南畝、十返舎一九、若き日の馬琴、式亭三馬、それに歌麿や北斎といった綺羅星のごとき文化人たちとの濃密な交流が描かれます。
『写楽残映』というタイトルは、ちょうど江戸三座が休みとなり、控櫓の舞台がかかるので、いっきょに役者絵それも大首絵を、ある工夫で売りだそうとする、この重三郎の仕掛けをさしています。これも「写楽の謎」のひとつの解き明かしでしょうが、これが物語のメインモチーフというわけではなく、主人公は重三郎の孫、銀治少年で、彼を取り巻く時代を鮮やかにたちあげてみせるのが眼目と思われます。
この少年は幼いころから蝶に興味を持ち、画才もあって、ゆくゆくは、母と結婚した手代の二代目重三郎のあとをつぐことになっていましたが、本草学、昆虫学など博物学に興味をいだき、幼くして、蝶の標本からみごとな「胡蝶模様」の図版、すなわち「鱗粉転写」を完成させます。祖父をなくしてからこの少年が、版画の技術に深く関心を持ち、あれこれの技法を試してゆくプロセスが面白く、目が離せません。そして蔦屋の跡目は弟に譲り、胡蝶屋を開業・・・
ほんとうに終わりのほうになって、その開店の店先で知り合った与力の子息と組んで、事件をひとつ、博物学の知識から解決してみせます。二巻からは、これまで描出されてきた豊かな背景の上に、彼のユニークな捕物帖が点綴されてゆくのだろうと期待されます。
しかし本当にこの時代に興味がある向きには本を置くことのできない面白さです。南畝が「学問吟味」で一度は旗本側の遺恨から落第させられたが、二度目は合格した話や、十返舎一九が婿入りわずかで逃げだし、捲土重来で「膝栗毛」をものしたものの蔦屋の眼鏡にかなわなかった話など、当時の世相や江戸の人士の気風が躍動し、重厚華麗なシリーズの開幕です。
この巻は(今後捕物帖になるにせよ)江戸の犯罪事情というより、市井の文化の(お上の圧力にも屈しない)逞しさ、活気を描いた小説として、読みでがあり見事です。