人類最終兵器 ドゥームズデイ・マシーン [DVD]
タイトルの人類最終兵器は”中国の地球破壊兵器”で、
冒頭に登場し早々に起動されます。もちろん地球は壊滅。
お話のメインは、宇宙へ逃れ生き残ったクルー達の葛藤であり、
生き残りと女性を賭けた戦いでもあります。
が、宇宙船内のセットは安普請。
コクピット内の光線の色も妙。
解説に”「妖星ゴラス」の特撮を使いまわし”とあるが、確かにそのマンマ。
宇宙船の形が、アポロだったりトンガリ型だったりハタマタ宇宙ステーションだったり・・・
と、特撮にはあまり思い入れのないように思われます。
ラストシーンもよく判らなかったので、解釈は見た方にお任せします。
星2つでよいのですが、これを持っている私自身への思いやりで星3つ。
ヘンデル:オラトリオ「メサイア」
メサイア全曲
キリ・テ・カナワ(ソプラノ)
アンヌ・ゲヴァング(アルト)
キース・ルイス(テノール)
グウィン・ハウエル(バス)
シカゴ交響合唱団(合唱指揮:マーガレット・ヒリス)
シカゴ交響楽団
ゲオルグ・ショルティ
1984年録音
DECCA
私は年末にメサイアを聴くことにしている。私が所有するメサイアは、下記の10種。その中、デジタル録音でおすすめなのは、ガーディナー、ピノック、アーノンクールよりも、ショルティだ。理由は、それがキビキビした音楽なので、聴いてて疲れない(これは大事なことです)。ショルティのメサイアが思い出させることは、オラトリオは本来演技のないオペラであること、つまりオラトリオは面白くあらねばならない・・・それを、上記のバロック出身系の指揮者は、あるいは希薄にしてしまったのではあるまいか。(私はショルティのメサイアを初めて聴いたとき、第8曲「アリアと合唱 よきおとずれをシオンに伝える者よ "O thou that tellest good tiding"」の合唱が、まるでワルツに聞こえてびっくりしてしまった・・・いま聴くと普通の三拍子だが)
合唱指揮者のマーガレット・ヒリスの指揮はここでもうまい。つい一緒に歌ってしまう。
メサイア(1972年録音),リヒター,Lpo
メサイア(ドイツ語版、1974年),Charles Mackerras,オーストリア放送交響楽団&合唱団
メサイア(1979年),ホグウッド,エンシェント室内
メサイア(1982年),ガーディナー,EBS
メサイア(1985年),ショルティ,Cso
メサイア(1988年),ピノック,イングリッシュ・コンサート
メサイア(1996年),マクリーシュ,ガブリエリ・コンソート&プレイヤーズ
メサイア(2004年),Nikolaus Harnoncourt,CMW
メサイア(2006年),ヤーコプス,フライブルク・バロック
メサイア(2007年),Harry Christophers,The Sixteen
華岡青洲の妻 [DVD]
長い時間をかけて丁寧に作られただけに、映画版よりもずっと良くできた作品。
原作も名作だが、「原作を超えた」と他のレビュアーの方が書かれているように、それ程よくできたドラマだと思う。
華岡青洲の妻、ヒロイン加恵(和久井映見)と姑・於継(田中好子)の演技が見事だった。
舞台となった和歌山の方言も美しく、情景・時代背景の描写も素晴らしい。
特に秀逸なシーンで心に残ったのは、京都から戻ってきた華岡青洲の足を洗うための水桶を、嫁の加恵が気を利かせて持ってきて足に触れようとすると、姑の於継がぴしゃりと手をはねのけるシーン。
それまで優しくて憧れの存在だった姑の於継が、変貌する演出の見事さ。
田中好子の表情の変化に女優魂を感じた。
青洲が和歌山に戻ってきてから、嫁姑の確執が始まる。
嫁の気持ち、姑の気持ち、女だったらどちらの立場の気持ちも理解できる心理劇。
青洲を演じた谷原章介は、後継ぎの長男として大切に育てられた、はんなりとした育ちの良さを感じる風情がよかった。
女同士の確執は、初夜の晩が明けてから、嫁の立場が次第に強くなる。
嫁が子を産んでも、女しか産めない、後継ぎができない、何人子をもうけたなど、あらゆる点が姑が嫁をつつく対象になる。
シーソーのように何度も立ち場が逆転し、愛する青洲の研究の為に、嫁姑の命懸けの戦を続ける愚かさと哀しさ。
いくつもの台詞の中に、心を揺さぶられるような言葉が散りばめられていて、じんわりとした感動を受けた。
同時に青洲の妹達が結婚・出産という人生を歩めなかった面が描かれているので、あらゆる生き方を考える上で女性には鑑賞をお勧めしたいドラマ。
音楽も美しい。
ラストシーンも深い余韻を残し、かつての時代の女の生き方と社会的価値の低さ、哀しみ、時代を超えても変わらない嫁姑の心情を見事に描いた秀作ドラマ。
茶―利休と今をつなぐ (新潮新書)
若い茶人による、新しい「茶の本」。
茶道、茶の湯、お茶とは何かを説明しようとすると、結構難題で、岡倉天心の本を読んでも(日本語訳でも英語でも)、結局良く分からない。作法なのか、技術なのか。心、道と言われると、もっと分からない。楽しみであるならば、何で茶道なのか。アメリカ生活のある著者は、こうした基本的な難題について、茶とは、総合芸術、表現芸術の一種、絵画でもなく、パフォーマンスでもない、「インスタレーション」という新たな芸術のジャンルであると説く。なるほど。そう思うと、分かりやすい。でも、それを何で一般の人が高いお金を払ってわざわざ習わないといけないの?こうした問いに、著者は、茶会(それも狭い茶室で行われる、懐石、濃茶、薄茶と進む4時間程度の会)がいかに人の心を通わせるか、その美点について、著者が経験した二つの茶会の例を引いて語る。なるほど。ゴルフの接待のようなものなのね。ゴルフよりも沢山お金が掛かり、洗練され、もっと濃密かつ文化的なものと思えば良いのだろう。
暗く狭い空間で、濃密な時間を共有し、お互いの文化的な素養、教養、育ち、拠って立つところを掛け軸や道具、会話、料理、菓子を通じて確認し合い、隙のない茶を点てるパフォーマンスの一部始終を見守ることでのみ生まれる緊張。そしてその後訪れる芸術的なカタルシス。記憶と思い出。
奥が深く、でも一般人にはとても踏み入れられそうにない世界が、そこにあった。
読むだけで人生が変わるたった一つの方法―伊勢白山道Q&A事典 (リュウ・ブックス アステ新書)
本を出版されていくうちに、語り口調も独特の言い回しと価値観が
強く打ち出るようになってきた。
「内在神と共に」では素人的な発言と価値観で構成されていてリアリティがあったが
出版本が増えるにつれて、より強く他の霊能者やスピリチュアル系の話を罵倒し
「そんなことをすれば不幸になる」「あんなことをしていたら早く死ぬ」などという
ダメな霊能者独特の独裁的で幸福論を唱える征服者めいた強い語り口調で
記述することが増えてきたのが残念。
たとえば「本物と偽者を見分ける能力があるか、例えばこの本を手に取った者は
見極める能力があったといえる」というようなニュアンスが書かれているが
ここまで書くと、もう一般的な教祖様と同じレベルである。
また霊能者がお金をもらって相談に乗ることをひどくバッシングしているが
「お金」に関してすごく偏見を持っておられ
まるでお金を稼ぐ人が、うらやましい存在である、自分だけ徳をしている という次元で発言されており
俗世的な思考で生きておられるのだなと思う。
お金をもらっていても、お金にそこまで多くの価値観を抱いておらずに
お金を稼ぐことが有利なことだと思っておらずに、お布施を頂いておられる霊能者もいるであろう。
なにもお金を儲けることに喜びを感じずに、ただ単に少ない金額で志を頂いておられる霊能者も
いるであろうが、それら全てを「金儲け」「偽者」と切り捨てておられる。
あなたが思うほど、お金に価値を抱いている人ばかりではないのだよ と言いたい。
そこまでお金にこだわって、お金に価値を置いておられるのだから
きっとご自身の原稿料は間違っても、全額寄付などしたくないだろう
果たして「この本は本物だ」と述べておられるご自身は
スピリチュアル的な能力や思考を盾にして、私腹を肥やしておられないだろうか
と気になるところである。